2013/02/11

第二十四回『傘の話』

その人は仕事をしていて、自宅の一階を事務所にしていた。


その日は、雨が降っていた。
帰り際にも振り続ける雨に戸惑っていると、傘が一本差し出される。
来客用に、法人向け通販でまとめ買いをしているのだという。
傘立ての戸の奥は暗くて湿っていて、そこに新品のビニール傘がたくさん立てられている。
捨てること、失くされることを前提に簡素に作られたそれらは、羽化と死を待ちながら無垢のようで、私は少し怖くなった。


「これさ、返さなくていいよ。」
「嫌だ。返す」
「え?でも、返すひと誰もいないし。いいよ。」
「でも多分汚れないよ。また次の人に貸しなよ」
「いや、あげるよ。失くしてもいいし」
「返されると邪魔?」
「邪魔じゃないけど、大丈夫だよ。」
「…あのさ、私がこれを借りて行って、阿佐ヶ谷でおりるでしょ。
 そしたらマジックで日付と場所を書いて。そんでまたここに持ってきて、別の人が使って、また日付と場所を書いて。
 それを繰り返せばいいよね。落としたら、拾った人が書いてまた使うの」
「ふむ」
「そういうのさ、もしみんなが続けたら、いつか傘に魂が宿って、自分で旅をするようになると思う。
 貸し借りに便乗したり、失くなったふりをしたり、わざと忘れられたり盗まれたりしてね。
 西川口のパチンコ行ったり、網走で雪背負ったり、ハリケーンを経験して傷ついたりさ。
 イメージだけど。もうしてるのかな?」
「う〜ん、我々が傘を捨てるのか、傘が我々を捨てるのか…」
「失くした時って、実は捨てられたのかも。よくあるよね」
「そうかな…」
「ん……」
「……」
「……」
「………どうしたの?」
「なんかさ、」
「なに?」
「大事にしたいね、いろんなことをさ。よくわかんないけど」
「うん。」
「できたらいいよ、多分」


そのうちに傘はどこかで失くして、いつどこで失くしたのも定かではない。
それどころか、似たようなことを結局何度も繰り返している。
人は誰もが流動的に、誰かの前を去りうるという気がする。もしかしたらあの傘も、
他に雨を避けてあげたい人を見つけて、死ぬ気でそこへ飛び去ったのかな、とぼんやり思っている。





(2013.2.11 配信)